2007年7月某日...その3

間もなく、帰国なのである。
私は同居の人々に別れを告げる。女の子が顔を覆って泣き出す。
「明日起きたらもういないの?」
台詞のような言葉だと思いながら、私もしんみりする。
女の子は顔を上げると、何もなかったかのようにじゃあねと言う。

荷物を送る手はずをする。物がわんさと増えている。わざわざ空輸する必要のないもの、どれがどっちだか分からなくなる。全部送ってしまえ。私は重い塊を持って運ぶ。

職員が私服で働いていた。一様に動作が鈍い。長い長い列が出来ている。人々は列の前方で何が起きているかに全く頓着なしで、私一人がいらいらしている。職員たちは物をバンバン投げながら乱暴に動いているのだが、所作は遅く一向に捗らない。時間がゆっくり流れる。誰がこの男にこの権限を与えたのだろう。

何でも記念といえば記念のような、ゴミといえばゴミのような、持って帰らなければいけないものはこの荷物の中に何一つないのだろう。私の家と呼んでいた一角が、もう私の家ではなくなる。その一角に帰り着くことが、私にとって大きな拠り所だったのに、そこが私と全く関係のない場所になってしまう。そこはどこにでもあるただの地点に過ぎず、私がそう呼んでいたに過ぎないことに気付く。もう間もなく帰国である。

家に帰り着いて一月経った。
私が異国で過ごした事実などなかったかのように、あっという間に日常に飲み込まれる。そっくりそのまま、1年前に接木される。日本に対しての懐かしい感情は一つも起こらなかった。当たり前の時間が当たり前に過ぎる。私はこの1年何をしていたのだっけ。

もうほとんど正真正銘、今の町の住人であると疑いようもなくなったある日、街でポスターを見かける。昔の家の傍、毎日前を通っていた大聖堂が写っていた。
突如ぐわっと複雑な感情が大きく滲み出る。

本で読んだのでも、旅で訪れたのでもない。
私は紛れもなく、あの時あの町の住人だった。

2007年7月某日...その2

何気なく街角のショウウィンドウを眺めていると、ガラス越しに人一倍頭の大きな男と目が合う。私が後退ると相手も後退る。よく見ると、不必要に髪の毛の伸びた私であることが分かる。床屋に行くことにする。

店に入ると店長らしき人物が小股で寄ってきて、本日の散髪担当者を指差す。彼女はまだ作業中で、目が合った私に軽く会釈をする。別の女が、私を奥の洗髪台へと連れて行く。その大柄な女は常に仏頂面で、店のシステムの分からない私に対して極めて不親切である。私は見よう見まねで、妙に高いその台によじ登り仰向けになる。

すると私が横になるや否や、女は何の断りもなくいきなり冷水を頭にかけてくる。最近暖かいとはいえ、突然のことにびっくり震え上がる。水圧としぶきがすごい。一通り頭に水をかけ終わった時点で、私の襟首はびしょびしょである。

女がシャンプーを両手に持ち、「どちらが良い?」と言う。天地逆でそのパッケージを見比べるが、何が何やら分からない。適当に片方を指す。女はそれを眺め、しばらく考えていたが、反対のシャンプーを使いだす。鼻歌を歌う女。なんとも納得出来ない状態のまま、また冷水をかけられる。

終わったらしい。自動で起き上がるシステムではなく、自分の腹筋で起き上がる。おざなりに頭にタオルがあてがわれたが、きちんと拭いてくれていないので、ぽたぽたとしずくが垂れ続ける。襟首よりさらに下まで濡れ鼠である。

女が私に何か言う。私はよく聞き取れず、無言で受け流す。するともう少し大きな声で言う。「マッサージしますか?」既に女の技量は見極めているので、きっぱりとNONと言う。急に女が笑い出す。周りの女たちがみな笑っている。場の空気として、私が何かを仕出かしたことが分かる。女を恨めしく思う。赤くなりながら散髪の場所に座る。

担当の彼女は待ちかねた様子だった。座るとすごい勢いでしゃべりかけてくる。適当に頷いていると、ものの3分もしないうちに切り終わる。女がにっこり笑う。鏡を覗くとなかなかの出来映えである。料金も良心的であった。私はびしょびしょになった襟元に沢山の髪の毛を付けたまま帰宅する。

それがほぼ一ヶ月前の出来事である。今、私はまたその店の前に立っている。店に入ると店長らしき男が小股で寄ってきて、本日の散髪担当者を紹介してくれる。奥から、はさみを持った前回の洗髪女がアーティスト然とした面持ちで駆け寄ってくる。

2007年7月某日...その1

劇場に行く。チケットは持っていない。何とかなるだろうと甘く考えていたが、チケットは完売しており、入り口は沢山の人で溢れかえっていた。

チケット求むと書いた紙を持ち、立っている人が見える。今日の公演の何たるかを知らずふらり立ち寄っただけなのだが、俄然観てやろうという気になり、私も同様の紙を持ち、立ってみる。しばらくすると男が一人寄ってきた。手には複数のチケットを持っている。金額を聞くと法外な値段である。しばらく交渉するが相手も譲らず、呆れた顔で去っていく。こちらはこの公演に思い入れがないので強気なのである。

開演時間が近づくが、紙を持った人の数はなかなか減らない。先ほどの男がまた寄って来る。今度は、当日券の値段で売ってやると言う。チケットを見るとそれより安い値段が書かれているのが見えた。迷ったが、購入することにする。少し後味悪かったが、劇場の入り口をくぐると、その気持ちも消えた。

指定された席に着くと隣の男が話かけてくる。「いくらで買った?」どうやら、私が男から購入するところを見ていたらしい。金額を言うと、いたく残念そうな顔で「それはひどい」と言う。彼は几帳面に自分のチケットのしわを何度も伸ばしながら、買い方によっていかにチケットが安く買えるかを教えてくれる。今日の思いつきをまた少し反省する。

公演が始まる。私の予想に反し、たいそうおもしろい演目だった。ぐっと身を乗り出し観る。隣の男は終始退屈そうである。途中何度も時計を見ている。そしてカーテンコールが始まると早々に席を立ち帰って行った。ひとしきり挨拶が終わり、席を立とうとすると興に乗った演者が即興で簡単な出し物を始める。それもまた良い。大喝采の中、隣の男はもうとっくに劇場を出て家路を急ぎ、彼のスタンプラリーがまた一つ進んだことに満足しているのだろうか、と思う。

2007年6月某日...その3

用件を済まし時計を見ると、かなり遅い時間になっている。腹が減っているが、家で作るには少し迷惑な時間だ。行きつけの中華料理店に行く。静まり返った路地を曲がると、一軒だけ明かりが見える。店を覗くとそんな時刻にもかかわらず、沢山の人が食事をしていた。満席である。

諦め帰ろうとすると店の主人が出て来て「どうぞ、どうぞ」と言う。そして既に食事をしている人々のテーブル端に無理やり椅子を置き、座れと言う。そのテーブルでは小さな男の子を連れた男女が食事をしている。戸惑っていると彼らも「どうぞ、どうぞ」と笑って言うので、何とも居心地悪い状態の中、席に着き注文をする。

彼らはいくつかの皿を分け合いながら滑舌良く会話をしている。私が座ると、異国の人間が珍しいのか幾つか質問をしてきた。程なく、私の頼んだ料理が運ばれてくる。店内にはいろいろな国の言葉が飛び交っている。人はますます増えている様だ。それを耳に料理を食べ始める。

ふと気付くと、小さな手が私の皿に伸びている。男の子が私の皿から料理を取って食べているのだ。彼にとっては私の皿もシェアされるべき皿なのだろう。あまりに自然な行為だったので、私もあやうく見過す所だった。私の皿は彼の好みにあったらしく、無心に食べ続けている。

突然、彼の頭に鉄槌が落ちる。彼は一瞬の後、大声で泣き出した。辺りは水を打った様に静まりかえる。全ての視線が私たちのテーブルに集まった。私は戸惑いながらも周りに愛想笑いをする。と、沈黙を破る様に男が立ち上がり、そして恐ろしい声で何かを叫ぶ。私には何を言ったのか分からなかった。

しかし店内はそれを契機にゆっくりと元の状態に戻っていった。男は席に着き女と視線をかわすと、私に向かって驚くべき笑顔を向ける。私は呆然と頷く。すると目の前に私が頼んだ料理と同じものが置かれた。叫んだのはこの料理だったのだ。私はこの気まずい状態から逃れたかった。第一、私の皿はもうほとんど食べ終わっていたのだ。丁寧に断ろうとすると、自分たちの食べかけの皿も差し出し、「どうぞ。どうぞ」と言う。沢山の料理に囲まれて、私の気まずさは頂点になる。

2007年6月某日...その2

人を案内することになる。案内すると言っても、こちらも観光名所に詳しいわけではない。自分がいつも徘徊しているコースは極めて偏っているので困ってしまう。自分以外の他人にとってはただの路地に過ぎないだろう。相手にどこに行きたいか聞いてみると、おまかせしますということである。

久し振りにガイドブックを取り出し眺める。自分が普段行かない場所が華やかに載っている。行ったことがない場所は案内とは呼ばないので、少しでも知っているところを選ぼうと思う。駄目だ。あまりに地味である。パリ感ゼロだ。もう一度ガイドブックを開き、推薦文を念入りに読み比べる。大まかなルートを決める。途中食事をすることになりそうなので、予約の電話をレストランにかける。誰も出ない。念のためガイドブックの表紙を見ると、かなり前のものであった。

街に出る。レストランに関しては、今日店の前を通ることにより馴染みと呼ぶことにする。どこだってそこそこおいしいだろう。通りの向こうに良さそうな看板を見つけ近付くと、思いの他、人が一杯いる。あまりに忙しそうなギャルソンを目に怯む。が、決めた以上よく知る必要があるので、中をよくよく覗く。すると明日案内するはずの人が写真を撮っているのが見えた。楽しそうである。白紙だ。家に帰り、今度は思い切り偏ったコースを準備する。

翌朝、体調を壊したと連絡が入り、予定が流れる。

一人で偏ったコースをゆっくり廻ってみる。