2007年5月某日...その1

休みの日。人の声を聞こうとカフェに行く。いい加減、日常会話のスピードに慣れなくてはいけない。ゆっくり言い含めるように話してくれる、私の周りの親切な人々の配慮に甘えてばかりはいられない。街に溢れる生きた会話を盗み聞くのだ。気付かれないよう真剣に聞く。しかし、脈絡も関係性も不明に聞き始めた会話は、なかなか深層がつかめない。

隣に2人の男が座る。何ということのない世間話をしている。話はそのまま女の話に流れ、下卑た笑いを時折混ぜながら熱心に話し続けている。が、途中まではっきり見えていた道筋が、ある時急に見えなくなる。耳に神経を集中し、行間を探る。一瞬、片方の男と目が合った気がした。少しのめり込み過ぎたか。私は本に視線を落とす。と突然、口論が始まる。しばらく声を荒げ話していたが、一人が席を立ち、そしてもう一人が後を追いかけ店を出る。私は唖然と2人を見送ると、効果が薄そうなこの方法をあきらめカフェを出る。

私の身構えが、無意識のレベルで口論の引き金になったかもしれない。路上では先ほどの2人が口論を続けている。その脇 を通り抜け、目的なくメトロに乗りこむ。路線図を見ながら行き先を決め、駅名を復唱していると、後ろから聞き覚えのある声がする。先ほどの2人が同じ車両に乗っている。私は奇妙な偶然に驚き、行き先を変更し次の駅で降りることする。すると2人も降りてくる。口論は止み、思いつめた顔で私の後を歩いてくる。もしや聞い てはいけない話だったのか。少し小走りに改札を抜け、すぐ目の前にあったカフェに入る。男たちはカフェを素通りし街中に消えていった。コーヒを頼み、時間をつぶす。学習のためとはいえ、盗み聞きはまずかろう。自省する。何か違う方法を考え出そうと思う。

しばらくしてふと気付くと、遠くの席で聞き覚えのある声が口論をしている。私は、怖くてもう後ろを振り返れない。

2007年4月某日...その2

通りがかりに本屋に入る。パリの町並みを写した写真集を見つけ、パラパラめくる。白黒の写真である。男たちはきちんと帽子を被ってチョッキを着込み、麗々しい顔をしている。四角い自動車が通りを走る。カフェでは初老の男が一人、籐の椅子に座り通りを見ている。笑顔でもなく膨れ面でもない寂しい目をした女がいる 。または男と女が抱き合っている。すぐ外でも同じ行為は行われている。しかし建物は同じなのに、人が違う。下には80年前の数字が書かれている。

本屋を出て、町を歩く。最近立てられた看板がある。張られたポスターの顔写真は、ビリビリに破かれている。特にある二人の顔は念入りだ。今週末まで張られているであろうそれらポスターの無傷なものを、私はまだ見ていない。女の候補者のポスターはなぜか白黒だった。

今朝の光景について考える。朝、いつもと同じようにカーテンを開けると向かいの建物に異変が起きている。築100年は経とうという建物の屋根裏部屋の上、煙突部分の下に落書き文字が色鮮やかに刻まれていた。その文字と建物の組み合わせはどうにもミスマッチで、その文字が一体何を主張しているのか知りたいと思い辞書で調べてみたが、結局意味は分からなかった。町はここ最近とみに落書きが増えている。

駅で暴動が起きる。人々は顔を合わすと熱心に話をしている。テレビでは子どもがとうとうと意見を述べている。大きな節目の今、建物は変わらないのに人が変わる。

2007年4月某日...その1

友人がカフェで古い文庫本を見せてくれる。彼はそれをヒントにある計画をたてていると言う。幾つかのアイディアを聞き感心し、以前その本を読んだ時の記憶を探る。ふと横を見ると、うすら笑みを浮かべて男が立っていた。男は我々のテーブルに次の物を並べる。腕時計、茶色い染みのついたコースター、ライター。全てが男の身なり同様みすぼらしい。

友人がNon!と言う。だが男は意に介することなく腕時計をせわしなく振り、それを耳に近づけこちらを見る。神妙な顔でさかんにうなづいているが、その秒針は止まったままだ。

おもむろに机上のペンを取り上げる。私のものである。それをこちらの鼻先すぐに掲げ、ぷらぷら揺らす。あまりに近過ぎて焦点があわない。ペン越しに男を見る。男の顔からは何の意思も読み取れない。ちょっとやばいなと思う。男が突然ひゃーと奇声をあげ私の目玉を突き刺すまでに、0.1秒とかからないはずだ。何もおこらない時間が過ぎる。

男は不意にその動作を止め、次に本を取る。友人の本だ。興味なさそうに中を一瞥するとこちらに向き直り、ページを親指でしごきながら、どう?と言う。その本に対してだろうか。そのパフォーマンスに対してだろうか。とにかく彼との距離が近いので、余計な刺激は避けなければと思う。ゆっくりと恐怖がにじみよる。何度目かの捲りが失敗しぱたんと本が閉まる。その隙に本を取り返す。

男は熱中していた割に何の頓着も見せず、また気まずさも一切感じさせない優雅さで、ゆっくりと上着のポケットに自分のものを仕舞い始める。ポケットには他にも何か入っているようだ。わずかに膨らみが分かる。始終私たちをなめるように見ながらゆったりと動く。顔にはにやけた笑いが張り付いている。

そして最後、私のペンを手に取るとその時突然顔の表情がのっぺらぼうに挿(す)げ変わる。ペンはポケットにしまわれ、あれよあれよという間に店の外に消えていった。呆然と取り残される。

ペン泥棒だったのだろうか。友人は自国で起きた軽い犯罪を詫びる。どうせ量産品の安物なのだ。私はどこから男の世界に飲み込まれてしまったのかを考える。

床を見ると男の走り去った後にくしゃくしゃの5ユーロ札が落ちている。

2007年3月某日...その4

目が覚める。軽く朝食を済ませ外に出る。良い天気である。このところずっと厚い雲で覆われていたので、無条件に気分が良い。歩きだす。思いきって外に出てはみたものの、予定までまだだいぶあった。

カフェに入り時間をつぶす。店内は日曜ということもあり、まばらな客入りである。いつもイライラした面持ちで注文を聞くギャルソンも、暇そうにあくびをしている。

私は手持ちの本をぱらぱらめくり時間をつぶす。隣の席に、ベビーカー2台を押した若い男性が近づいてくる。男はベビーカーを隙間に押し込み座ると、せわしなく時計を見ている。そしてベビーカーからおそろしく愛想の良い子どもを抱え出し、私の隣に座らせる。子どもは私を見て微笑む。私もそれに応え微笑む。すると、持っていたクラッシックカーのおもちゃをいきなり私のコーヒーの中に落とす。移動することにした。

角を多めに曲がって目的地に到着する。建物の入り口で煙草を吸う。ゆっくりふかしたつもりだが、たいして時間は経たずまだ間があった。たまには早く入るのもいいかもしれない。入り口を抜け、階段を上る。誰もいない。ベンチに腰掛け待つことにする。やはり早すぎたか。また読みかけの本を読む。

だが予定の時間になっても扉は開かなかった。それどころかいつもいるはずの待ち人が、今日に限り一人もいない。不安になってくる。扉越しに中をうかがおうと近づくと、突然扉が開き男が出てくる。男は私を見るなり、「早くお入りなさい。とっくに始まってますよ」という。中を覗くと既に大勢の人が床に寝転がっていた。慌てて中に入り私も寝転がる。

鏡越しに時計をみると、私が入り口に着いた時から既に1時間以上が過ぎていた。そんなに経っただろうか? 私の中の感覚が急に不安定なものになる。帰宅する途中、色とりどりの野菜を並べた店で買い物を少しする。古ぼけたラジオが「夏時間」の到来を知らせている。