2007年3月某日...その3

食卓を囲む。

今日は同居人の娘の誕生日だ。「たいしたものはないですよ。」という誘いに安心し、気軽な気持ちで出席する。娘は緊張した面持ちで宴が始まるのを待っている。

今日の主役は彼女なのだ。じきに料理が運ばれてきて、宴が始まる。たいしたものではないという言葉と裏腹に、大量の見たこともない料理が運ばれてくる。戸惑いながらも、周りに合わせ食べ始める。宴は多いに盛り上がり、笑い声が絶えない。色々な話題が出る中、大家であるマダムが、今日メトロで会った男の話を始める。顔の幅が普通の半分で後頭部が異常に長い男の話を。一同驚きとともに、ことの真偽を問う声が飛びかう。そんな中、娘が小さな声で誕生日の歌を歌い始める。彼女の小さな抵抗に、大人たちは慌てて本来の主役を持ち上げはじめる。

突然、電気が消える。娘と私を残し、皆いなくなる。私は戸惑いながらも、覚えたての祝いの言葉を彼女に贈る。彼女はすました表情で「ありがとう。 ムッシュー」と答える。妙にすましたその態度に、私は吹き出しそうになる。

遠くから歌声が聞こえてくる。先ほど娘が歌っていた聞き覚えのある歌である。歌詞がわからないので、ハミングする。8本のろうそくが灯ったケーキとプレゼントが運ばれてきて、娘は目の前の炎を一息に吹き消した。拍手が周りを包む。私もあわてて拍手をする。気のせいか、拍手の数が多いような気がした。

明かりがつくと、プレゼントを開けている娘は成人した女性になっていた。手にしたプレゼントからは立派なドレスがでてくる。それを羽織ってモデルのように歩き、ウインクする娘。そして次に、私のささやかなプレゼントを開ける。子どもが喜びそうなものを見繕ったのだが、今の彼女にはいかにも不釣り合いに見えた。

「ありがとう、ムッシュー。」
私のプレゼントを開けた瞬間、彼女はいつもの姿に戻っている。皆の笑い声に、愛想笑いをしながら私は軽くまぶたを押さえ食事を始める。ふと辺りを見回すと、皆、細長く後頭部が長い顔をして笑っている。

2007年3月某日...その2

帰宅途中。今日の出来事を頭に思い浮かべる。一つ穴が埋まらない。おもむろに道の端に寄り辞書を広げ調べだす。あーそうだった。もう何度も見たことのある文字と再度顔合わせをし、苦い汁が舌ににじむ。乱暴に辞書を閉じるとアパートの前に着いた。

押しボタン式鍵2箇所を開け、中に入る。エレベーターに乗りながら、今日の出来事をもう1度、2度3度復唱する。扉の鍵2箇所を開け、家の中に入る。玄関を通り、居間に行く。マダムがお茶を飲んでいる。

塵ひとつ落ちていない快適な空間。大きく息をし、今日の出来事を伝える。報告は一瞬で終わるのだ。そこを糸口にマダムと話す。私の持てる感覚器官全開でついていく。耳の穴だけでは足りない。毛穴まで開き、情報を取り込む。今日マダムは孫と映画を観に行った。「とても良い映画だったわ。」何度か聞きなおしたが 、主演俳優も監督も全く知らない人だった。改めてタイトルを聞き、頭に刻む。「何時からの回を観たのですか?」「四時よ。」「午後のですか」「そうよ」にこやかに話は進む。

自分の部屋に入る。どうでもいいことを聞いたものだ、と髪を掻きむしる。自分のにおいするタオルにくるまって、今日はもう寝てしまう。

2007年3月某日...その1

メトロに乗る。

夕方の帰宅ラッシュで混み合う車内に、男が一人乗り込んでくる。おもむろに懐からギターを取り出し、座っている老人の鼻先数センチのところに掲げ歌いだす。歌声はじっと動かない無表情な老人の鼻腔から入り込み、ぐるりと回って行き渡る。周りを見ると人々がリズムを取っている。よく見るとそれは電車の揺れだった。人々は男の歌声を聞こえているとも聞こえていないとも分からない無関心さでやり過ごす。退屈な日常に突如飛び込んだ異分子を扱いあぐねているようだ。もしかしたら空気は少し固くなったかもしれない、と思った。

歌が終わる。拍手があるわけでもなくないわけでもない中、男は帽子を手に座席を回る。私は少し哀しいような気持ちでそれを見る。突然手がにゅるりと伸びてきた。ぼとっと硬貨が落ちる。続いてまた違う手が伸びる。複数の手が男のまわりを取り囲む。だが男はそんなことお構いなしにすたすた車内を進む。男の後ろを何本も手だけが追いかける。もたもたしていると男は通り過ぎてしまうのだ。人々は密かにずっと握り締めていたとしか思えない俊敏さで、機を見て帽子に硬貨を投げ込む。私も男に金を渡したい。だが、私が財布に手をかけている間に、男は電車を降りてしまう。何事もなかったかのように電車は発車する。

気付くと、私の降りるべき駅はとうに過ぎてしまっている。

2007年2月某日...その4

横で人が捕まる。 何事もない穏やかな昼下がり、人々は気付かないのかそれとも当たり前すぎたのか、気にかけず通り過ぎていく。その瞬間も、その前も後も空気は微動だにしなかった。ただ私だけが目撃する。

私は間が悪く、立ったまま肉を食べている。ピリッと緊張した空気が流れたその瞬間、ソフトにだが厳重に獲物は取り囲まれている。不条理に世界が反転したにもかかわらず、獲物は身に起きたこと全てを悟る。その後の仕打ちについても。どの通行人とも変わらない一通行人だった自分が、特別な存在になったことが分かる。逃げよう。だが逃げよう、が筋肉に伝わる前に彼は諦める。逃げられない、知ったのだ。

かくして、暴力は持ち出されることなく決着がつく。点から後、彼は罪人となる。

私はその場を離れたい。私は、私だってあの輪で囲まれたら最後、彼となることを知っている。全く身に覚えはない。身に覚えがなくたって、だ。

下手に動いて空気を動かしてはいけないと思う。私は早くこの場を離れたいが、動けずにいる。存在をひた隠しにし、やり過ごさなくてはいけない。息をひそめる。ふと、手にしている肉の塊が警官を刺激することに気付く。肉からは匂いが立ちのぼっている。息を殺してじっとしている手の中で、生々しく存在を主張し続けている。この匂いをどうしてくれよう。私は自分の口に押し込む。噛まずにどんどん飲み込む。口から汁が垂れ、手を伝い床にこぼれ落ちる。それでも食べる。食べても食べてもその塊は一向に減らない。もしかしたら警官はもう気付いているかもしれない。それでも私は無邪気に格闘する振りをする。

誰も見ていないのに、私の演技は続く。