2007年2月某日...その3

女に電話をかける。と思ったら男が出た。しかも土地の言葉である。全く予期しないカードを突きつけられ、真っ白になる。目の前にぶら下がる紐を当てずっぽうに引っ張る。むやみに引いた割に、まっとうな受け答えが出る。私は勢いづき、余裕のていで次の返事を待つ。だが、ない。返事がない。急にいろいろな可能性が頭を過り、言葉を続けることをやめる。沈黙。私は相手に次の展開を預ける。だがその目論見は失敗し、電話を切る。深いため息の後、再び電話をかける。

3コール待たされた後、不機嫌な女が出る。沈黙の中に苛立ちと蔑みが同居する。だが私は女が出たことで少し弾み、無計画にことを進めようとする。言葉を探す。「今からどうだろう」「今、何時なの?」時計を見ると午後2時だった。「それは無理でしょう」女はとがめるような声で言う。私はよどまず次の候補日を口にする。「明日の4時は」ちょっと考えた後、女は言う。「お茶と食事の間ということね」

意味深に含んだ笑いを残し、女は電話を切る。

2007年2月某日...その2

相手が私に向かって話をしている。周りの人も私を見ている。だが、私はキーになる単語の意味がどうしても分からない。あるいは、いちかばちかで憶測した意味が全く見当違いで、とんでもない所まで漕ぎ出してしまっている。目標になるような漂流物は見当たらず、見渡す限りの大海である。私は無闇に漕ぎだせず、だらしなく波間を漂う。

ある女の人がすっと立ち上がる。見かねて助け舟を出してくれたのだ。彼女は果敢な行為を誇示することなく、面映そうに輪から離れ私に近付く。そしてこちらの耳にそっと口を寄せた。

「…、………。」驚いて女を見る。女は真剣な顔でこちらを見ている。私は何も答えられず戸惑う。それを見て、先ほどよりは少し大きな、しかし他の誰にも聞こえない音量で彼女は再び声を放つ。

何を言っているのか全く分からなかった。言い足すとそれは文を成していないのだ。私はあきらめず推し量るが、ひたすら分からない。一体何を言いたいのだろう。面映そうにわざわざ出てきて何をどうしようというのか…。私は女を傷つけまいという意識と、真意を図る気持ちに揉まれ、気付くとまた大海にいる。

先ほどよりも、更に一人であることが分かる。遠くのほうで私に向かって、再度問う声が聞こえる。みなの視線が集まってくる。いつの間にか、女の尽力により私は確実に救い出され、後は私の帆走を待つのみという状況が出来上がっている。

どっちに向かって漕ぎ出そう。なぜか急遽守らなくてはいけない大きな荷物を横に抱え、私はただただ波間を漂う。

2007年2月某日...その1

食事を口実に密談に出かける。私は男と連れ添いレストランに入る。

店内にはたくさんの人が溢れかえっていて、奥しか空いている席はないようだった。薄暗い中に紫煙がくねり、若い男女が嬌声を上げている。無作法に椅子の背もたれが重なり、通路とよべる隙間はなかった。私は足を投げ出した視線をかい潜り、前に進む。

食事時だというのに男が一人、本を広げ座っている。その男と直角に面した席に座る。男と私たちの距離はただでさえ近いのに、男はしばしば無遠慮にこちらを見る。あまりに近くで場を共有しているので、3人で一つのテーブルを囲んでいるかのような気分になる。言葉が通じないだろうというその一点を拠り所に、他人のいる前で私たちは密談を始める。

私は本を読む男のことが気になって仕方がない。話の隙にちらちら見やる。男は、たいていは熱心に本に目を落としている。たいそうぶ厚い本を読んでいて、その小さな文字は私には判読が出来ない。だがしばらくすると、本のページがいつまでたっても繰られないことに感づく。男は本など読んでいないのだった。私は、あっと声を上げそうになる。

密談の相手にそのことを伝えようと思い、目を移す。だが相手はそのことに全く気付かず、上機嫌で話している。私はもどかしく思うも、為す術なくその場にいる。料理が次から次へ運ばれてきて、私はますます機会を逸する。「…なんですよ。」男はにこやかに話し続ける。私は仕方なく料理に手を伸ばす。ナイフを取ろうとして手が滑り、ガチャっと大きな音を立ててしまう。

気付くと、同行の男が激しく不機嫌になっている。よくよく見ると元とは違う形相である。右目だけ吊り上がり、口が微妙に大きくなっている。ナイフを投げ出し、手づかみで料理を食べだす。そのまま手を駆使して、のべつ料理を口に運ぶ。「だって…だもんね。」驚いたことに口調も違っている。男は食べることを止めない。みるみるうちに身体が膨らんでいくのが分かる。男は部屋一杯にどんどん広がっていく。遠くの方で男が私を呼ぶ声が聞こえた。彼のももが私の顔の直ぐ横にあり、私の頬を押しつぶす。ふと見ると、本を読む男は下を向いて必死で笑いを堪えている。

2007年1月某日...

バターを買いに行く。店の正面の棚に巨大な乳白色の塊があり、そこから一すくい包んでもらうのだ。私はその光景を思い浮かべ、うっとりとする。

バター屋の前に着くと、狭い店頭に人がみっしり溜まっている。大勢の人だかりで、中を伺い見ることが出来ない。人だかりはなぜか全て男たちで、列をなさず、ぐっちゃり並んでいる。一番後ろにつくと、前の男の肩越しに前方を覗いた。全く予想もしなかったことだが、たいそうな騒ぎになっている。騒ぎが過ぎ、何人かはクルクル回っている。これは長くかかりそうだな。私は腹を決めて待つことにする。私はただ、バターが100g欲しいだけなのだ。喧噪の先には、白衣を着た男が一人、バターを売りさばいているはずだ。

群は一向に進まない。よく見ると、バターなど売られてないことに気付く。白衣の男はにこやかに最前列の男と話をしているだけなのだ。やられた。私は憤慨しその場を立ち去ろうとする。一瞬、白衣の男がこちらを見やる。男は片目をウインクした。その瞬間、周りの男たち全てが消え去り、白衣の男と2人きり、私はそこに取り残されている。広い静寂があたりを包む。突然の好機に、しかし私は言葉が出てこない。身振り手振りを交え、何とかバターを100g手にする。店を出る。

張り付いた笑顔を剥がすと、下から真っ赤な顔が現れる。握り過ぎで、バターは半分溶けかかっている。